軽井沢鉱山

福島県河沼郡柳津町軽井沢銀山

軽井沢鉱山は、永禄元年村民松本左文治により発見され天正3年頃銀山として繁盛をきわめた、その後進退を繰り返し明治以降、大島高任、古河市兵衛などの鉱業家によって、 経営され明治時代には全国的にも有名な大銀山であったが、現在は閉山となっている。

産出鉱物
銀・鉛・亜鉛・鉄・重晶石

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軽井沢部落より鉱山跡を遠望

製錬用煙突通洞坑跡
  
製錬用煙突横より軽井沢鉱山記念碑
  
煙突基部この状態だと解体間近か梵天坑のズリ
  
梵天坑跡ズリ山より煙突を望む


軽井沢鉱山の沿革

永禄元年
松本左文治により発見された。<別説だと後の元和年間に軽井沢の農民、治右衛門が銀鉱を発見>
永禄2年
銀山として開坑。
天正3年
繁盛を極め製銀を蒲生氏郷に納めたと伝えられる。
慶長17年
休山。
元和2年
加藤嘉明により再開。
元和3年
月産112〜150Kgの銀を産出。
寛永19年
飢饉で休山。
正保元年
保科正之により再開。
享保5年
栄えたが後の元明の飢饉で休山。
寛政2年〜天保4年
銀山として稼行。
明治初期〜
大島高任、古河市兵衛により経営。
明治12年〜
産銀量増え繁盛した。
明治19年
オーガースチン式製錬開始、月産出鉱1800t、製銀300Kgに達した。
明治24年〜25年
操業停止、閉山するに至った。
明治25年と29年
閉山直後に連続大火で被災。


軽井沢鉱山は、江戸から明治時代に栄えた銀山であり軽井沢部落の人に聞いても知っている人がいない
運よく銀山で鉱山事務所跡に住んでいた古生さんに当時の明治時代の話を伺うことが出来た。
古生銀三郎氏と古河市兵衛氏が協力しあいながら事業にあたったようだ、丁度息子が向かえに来ていて
おばあちゃん一人で住んでいたが、いわきに行くので今後は別荘みたいになっちゃうそうです。


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