院内銀山

秋田県雄勝郡雄勝町 院内銀山 (熱水鉱脈鉱床)

最終更新日2000/05/12 拡大写真リンク修正

院内銀山は慶長11年(1,606年)村山宗兵衛はか3名によって発見されたわが国有数の銀山で、佐竹藩の重要な財源の山であり、 同時に天下の御役山としても幕府におおいに重要視された。
元和3年(1,617年)中、すでに1,300戸、7,100人余りの大集落地となり、年々の産銀額も増大し、諸国より遊芸人・ 文化人も多数入り込み「出羽の都」とまで言われる繁栄を示した。
しかし、良鉱のみを採掘したため一時不況となったが、幸い文化4年(1,807年)より銀山ふたたび大直りとなり、藩においても 直営として積極的に援助した結果、天保の頃は発見当初に劣らぬ大銀山となった。特に天保の中期には「天保の盛り山」と称され、 年間約3,800Kgをこえる産銀が、10年以上も続く好況であったと言われている。
当時、戸数4,000戸人口15,000人を数え、久保田城下(今の秋田市)をしのぐ程であった。
明治初年、藩より一時小野組さらに工部省に移され、巨大な投資により近代化された。
明治17年(1,884年)古河市兵衛に払い下げされ、この時期、次第に産銀額が増大し、明治中期には実に年間15トンを産出 するわが国第4位の大銀山となった。
その後、銀価の崩落と金本位制等によって鉱況がいちじるしく不良となり、ついに大正9年採掘を停止するに至った。昭和初年深鉱所 を設置したが、昭和29年(1,954年)全山休山となり約350年の歴史は終わった。

産出鉱物
金・銀


院内銀山史跡案内板
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最盛期の鉱山写真
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金山神社御幸坑
 
 
大切疎水道 


★金山神社 (かねやまじんじゃ)

院内銀山の中央にある当神社に、銀山発見当初よりの鎮守社で佐竹藩から尊び啓まわれ、代々の藩主より奉納された
金燈龍・書画、その他の宝物を数多く所蔵しており、院内銀山がいかに重要な佐竹藩の台所であったかが伺える。
又、境内には銀山在住の山師金名子の奉納した扁額・狛犬・石燈龍多数あり往時の隆盛をしのばせる。
現在の堂宇は文政13年(1,830年)、藩命によって久保田の大工棟梁米沢屋倉松の手によって造立されたものである。


★御幸坑  (みゆきこう)

御幸坑は初め5番坑と呼ばれており、明治天皇が東北御巡幸遊ばされた明治14年(1,881年)9月21日院内銀山に
御臨幸の際、自らこの坑にお入りになり、坑内及び諸工場を御巡覧なされたことは、未曾有の出来ごとで、この光景は
明治神宮外苑聖徳絵画館に壁画として残っており、この日を以って国の鉱山記念日とされたことは、史上特筆として永遠に
伝えるべき偉大なる事蹟と言うべきであります。
又、御幸坑とは、後日、吉井工部大輔の命名である。


★大切疎水道  (おおぎりすいどう)

大切坑は、水抜き坑として宝永4年(1,707年)普請奉行赤石助左衛門によって切り開かれ、大切口より5番坑
(今の御幸坑)まで全長1,644メートルあり4ヶ年の歳月を要して完成した。
これは当時としては大事業で、これによって地下の坑道の水抜きは格段の進展を遂げたのである。
明治14年、明治天皇院内銀山御巡幸の時は、御野立所としてここを御覧あそばされた。
後には、鉱石運搬道としても利用された。


院内銀山は、御幸坑・山市堅坑・早房坑・不動坑と、水抜き専用の大切坑などがあり銀山跡は現在 秋田県指定文化財となっている。

院内銀山に行くには、国道108号線雄勝町より国道の標識に従い西方に車で約10分で到着する。


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